2011/07/13

いわゆる健康的でない人が家をつくるということ・地鎮祭



すごくお久しぶりです。牛の方です。
暑さと持病と緊張でふらふらしながらも地鎮祭を終えることができ、(しださんやみどり建設のお二人や鳥の人のおかげで)地鎮祭でなんと確認申請もおりたというご報告をいただき、

いよ         いよ             

着工へと近づいてきました。
地鎮祭は、私参加するのはじめてだったんですけど(そういう人が多いでしょうけど)、美しかったです。
見て下さいこの美しい白い・・・なんていうんだろうこれ。
(ぐぐってきた)紙垂!青空!笹の緑!

特に日頃神道を信仰していない私ですが、昔気功の先生に自然物の美しさにはそれだけで力があるみたいなことを教わって、自分のそういう感覚は信じています。

お酒や、お米と塩と鮮やかな色とりどりの紙がまかれて、神主の方に祝詞を上げていただきました。(私の名前は・・・言ってもらえなかったけど・・・くっ)

頭がもうろうとしてたけど(周りの方にすごく心配していただいて・・・)、すがすがしい感じがして、やってよかったなあと思いました。



~ここから一般的じゃない家を建てるのにあまりメンタル的に向かない人が家を建てるの話~


私は、今まで書けなかったことですが、正直に書くと今までこの土地が怖かったです。

買 うときに前の晩一睡も出来なくて、気になることが契約の前の日になってどんどん不安になって、前のアパートの騒音とかで追い詰められてたのもあって、もう 誰も信用できなくなって非常に精神的にやばい感じになりました。電車の中でなんか周りじゅうから見られてるような気がしたり。

本当にこん な大きなことに大きなお金を使っていいのか、本当にあそこでよかったのか、みんな本当のことを話してるのか、土地の専門用語なんかわからないし、保証なん かないなかで判断するなんてなんて怖いことをしてしまったんだろう、とパニックになって精神病院にかけこんで診察で泣き、仕事の忙しい鳥と話しもできず、 アパートに帰れなくてすごい久々に(当時そこもめっちゃ緊張の対象でしたが)自分の実家に帰って、また泣きました。安定剤飲んで睡眠薬飲んで、母に話して 泣いて、やっと寝ました。

家を建てるのは、志田さんとお話をさせていただく中で、なんか、信頼できて大丈夫だという感覚があったのですが、土地についてはそういう感覚は誰にももてないまま決断しなければいけないことでした。
それで、その時のえっらい苦しくて頭がぶっとんだことが体に刻まれてしまって、この場所というもの自体が怖くなっていました。

好 きな街から離れてしまうこと、周りがぐるりと囲まれていること、塀がぐらぐらなこと、周りの人たちからまたいじめられるんじゃないかという不安、なんで前 の人は売ったんだろう、買うときに追い詰められた思い出、もういろんなことが全部ごったまぜになって、とても一人ではそこに行けないくらい怖い。どんど ん、転がる玉みたいに大きくなっていくんです。不安が。言えないので、余計に。

私が地鎮祭の時調子が悪かったのは、暑いからというより緊張がひどかったからなんです。
近所の人への挨拶とか・・・もう、泣きそうなくらい緊張していて、でも、せめてちゃんと自分で挨拶しないととか思って、結局鳥の人よりべらべらしゃべりました。ああ、やっちゃった。

志田さんやみどり建設のお二人の挨拶や、地鎮祭での気の使い方とかの大人っぷりを横目でちらちら確認しながら、どうしよう、どうしよう私こういう風にできないって思いながら一所懸命まねをしました。

まだ、怖さは完全にはなくならない。というか基本的に怖いことだらけなので生活の中で不安のレベルが高くなるか低くなるかの違い、といった感じの私の毎日です。

でも、昨日いってみて、少しだけ、怖さが減った気がしました。
想像の中の不安がいつでも一番怖くて、はっきり原因がとれない不安には対処もないのでつらいのです。現物を見てみると、そこまで怖くはないんじゃないか、という感覚が私に生まれました。
ちっちゃなちっちゃな、芽。


***


この話しが今までずっとのどにつかえていて、いつもブログを書くのがちょっとつらかったです。
なんで書けなかったかというと、これって一所懸命私たちの家を考えてくれている志田さんやまわりの人の気持ちを害するんじゃないかという不安。
メンタルのある部分がかなり弱いというのは、「大人である」ことが求められる作業をしている時に、人に信頼してもらえない原因に容易になりうるという予測。

じゃあなんで書いたかというと、こういう弱いところ、案外、言ったら「私も実は」という風に人の話が聞けることが最近結構あること。そうすると、私だけがおかしいとか、苦しいとか、思わなくてすむ。

家を建てるということ=すまいを得るということは、定型で語られやすい。家族を持ったから、お金が貯まったから、夢のマイホーム!
その時前提になりやすいのは、「健康である」ということだと思うのです。
それは、ローンを組まなきゃいけない問題とかとからんで健康って出てくるんだと思うんだけど、すまいというのは生きていく上で必要なものです。
(私たちも、そういう意味で鳥の人はわりと「健康」です)

私にとって、この家は必死でつくった生きていくのに必要な場所です。
(でも三日で住めなくなっても意味はあるのです)

そういう意味で、健康でない人間も家をつくることもあるし、私の場合はどういう風に健康じゃなくて、必死だったかってことを書いておくのも意味があるかなと思ったので今やっと書いてみました。

色んな意味でアクティブに物事に取り組める人だけが、(資金の問題をおいておいて)建て売りでも賃貸でもなく、自分たちの生活を考えてくれるいい建築士さんと家をつくれるわけじゃ・・・ない・・・みたいな世の中になったらいいなという願いをこめて。


一般的な家を造るということの困難さ以外の個人的困難さを、記しておきます。

1 件のコメント:

  1. すっごく真面目に書いたんだけど、消えちゃった~~~(笑)

    気を取り直せないので簡単に。。

    先の事はとても不安で大きく感じるんだけど、そこに行ってみると、そんな不安を忘れてる。「大人である」こと・・なんて、大した事じゃない。その時にその人が一生懸命であれば、それでいいと思う。

    家を持とうと考える事は健全な事で、それを実行したのは、強い意志があるから。
    行きつ戻りつ悩むのは、、、大人(に見える人)にもある事。そもそも、歳いっても、悩む事は・・・青臭いのです。

    きっと、、誰でも。。

    一歩踏み出してみる。・・これだけはいくつになっても必要!

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