2011/03/21

実施設計図をいただいたりキッチンをみてきたり

牛の人です。
地震から一週間以上がたちましたね。
私には被害が大きかった地域に知り合いや友達やその家族なんかがいなかったので、そういった意味では苦しい思いはしなかったのですが、やっぱり続く余震とか、止まらない原発の事故とか、なんとなく街にパニックな雰囲気を醸し出す東京近辺の買い占めや計画停電や、ずいぶん心の余裕がない日々を送っています。
もともとメンタルに病気とか、弱っている人はこういった天災の無力感とか非日常感でフラッシュバックを起こしたり、鬱がひどくなったり、逆に鬱の人が躁に入ってしまったり、するそうです。
かくいう私も前者パターンで調子が悪いです。
私のまわりはそういう人が多いので、あー本当にこうなるんだなあって感じです。
私はあんまり調子が悪くなったので入院も考えています。(医者からすすめられたわけじゃなくて疲れ果てて自主的に)今はとりあえずそういう手段もあるってことで一安心して、家にいます。

ある程度健康な、まわりの人もそうです。落ち着かないし、情報も混乱します。何回もショッキングな映像を見たりすることも、子どもはもちろん大人も心を疲れさすそうですね。テレビをつけっぱなしにするのは精神的によくないなと思いました。
この混乱が収まったらちゃんとしたラジオを買うんだ。

そんな中、志田さんから実施設計図(途中までらしい)をいただきました。
実施設計図というのは最初の間取り図(いわゆる部屋探しの際に見るようなものですね)と違って、家のいろんな場所をいろんな方向から切り取って、サイズとか指定が書き込まれているようなものです。
三次元で、本当に建てるんだなあってイメージがわいてくる感じがします。

打ち合わせ、なんか毎回すごい私がしゃべって長くなってしまっているような気がしましたが、志田さんいわくそんなものすごい長い打ち合わせなわけでもないらしいのできっとこんな感じなのでしょう。2時間ちょっと。
打ち合わせの途中であーうー迷うとなんだか申し訳なくて(そんなこともイメージ出来ないまま話していたのかって感じで)時々落ち込むのですが、打ち合わせってそういうものらしいので次回から落ち込むのはやめます。

個人的にはずっと気になっていたテーブルを置くか作業台を置くか、そこに何が必要だろう、どうしたいだろうっていう2階のイメージが相談できて、結果作業台方向で納得できて、よかったです。見積もりがどうなるかわかりませんが・・・。





さて節電モードに入った高層ビルって不思議!な感じなショールームで、totoの見積もりをとってきました。
上の戸棚はつけないので、下のシンクとコンロとその下の収納一式です。
前面も例のINAXのタイル張りにするのでパネルもなし、換気扇も志田さんおすすめの他社のものを使うということでそれもなし、限定的なところをそれでも迷って決めてきました。

とりあえず白で。私色彩感覚に自信がないのでまあとりあえずシンプルで白でってなります。
作業台やシンクはステンレス。通常の水栓。一番安い白の扉(作っている工場が被災したそうで・・・頼むことがいいのか悪いのかわかりませんでした)
でもきっと、部屋の雰囲気とか、後ろの白のタイルとあわない風にはなってないと思うんですよ。

先日は案内係の方が「便利ですよね」って言っていた見積もりをすぐ出すPCが止まっていて、郵送になりました。25日くらいに来るって言ってたかな?いいですよね、すぐでなくても、郵送でも、自動ドアが開放したままになっていても。
これから、「元通りに」東京という都市が電気をたくさん使う状態に戻れることを復興と呼ぶ人がいるなら、私はそれはあまりにおろかではないかと思います。
原発以外の方法で電気量を確保できるのだとしても、です。





こんな時ですが私は私の話をしますね。(励ましも不安も、たとえば東京に来られた方々に自分が何かできるかということも何か体の中に落ちていない気がするので)
私が育ってくるときにも、東京直下の地震がくる、くると言われて育ってきました。
たとえば今お家を建てても、直下が来ればせまい路地にたつ家が完全に無事ということはないかもしれません。外にいたりして、生き残ることもできるのかどうかもわかりません。
家を持つということは、たくさんお金や想いをかけたそれが壊れてしまうかもしれないというリスクも負った決断なのだと思います。また、家から引き離されてしまうことも。

今回の地震で、私は家を建てる決断をしたときに、たとえば3日でもいいから居心地のよい家で、鳥と笑いあえたらそれで建てた価値はあると思ったことを思い出しました。
人はいつ死んでしまうかわからない、という想いが私は常に頭から離れない人間なんです。
私や鳥が老いることができるまで生きていられるかどうかなんて、わからないのが正直なところ。
3年先まで生きていられるかどうかも。
お家を建てても、そこにずっといられる環境なのかどうかもわからないのが正直なところ。

それでも、朝や昼や夜にふと風を感じたり、ご飯を食べたり、いろんなことを考えたり、調子がよくなったり悪くなったり、そういう日々を人生のパートナーである鳥や、同じく人生を一緒に生きてくれる好きな人たちと感じられる瞬間が一回でも二回でもあれば、それはそれで素敵なことだと思います。
だから刹那の贅沢がしたい、ということではないのですが・・・なんかそれとの違いがうまく書けないな。
言い訳をしても同じことかしら?





いろんな支援をしておられる方は本当に大事なことをしていらっしゃると思うし、危険な作業をしていらっしゃる方もいらっしゃると思います。けれど、大きな災害や破壊や事故があった時に、そこに出てくる何か特定のものを英雄視したり、日本という国というよくわからない枠組みで「日本人」が素晴らしいと語ってみたり、そういう雰囲気は私は嫌いです。人の小さな小さな気持ちや、もしかしたら今だって沈黙する人の多い素晴らしくない問題がさらに押しつぶされてしまいそうだから。

すべては明日この世から去ってしまうかもしれない一人一人の貴重な生活が、大事にされているかどうかということ。災害を想定し、事故を想定し、そこに暮らす人の生活を守るという政治の力が違った方向に使われてきたのではないかということ・・・いろんなことを考えます。

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